インクルーシブな社会は、親たちにも優しい社会だと思う。
「インクルーシブ = 包括的な/すべてを含んだ」という意味合いで、誰も切り捨てない、ひとりひとりを尊重する、そんな社会を目指そう、という流れがあります。
インクルーシブ教育やインクルーシブデザインなど、誰もが共存可能な社会を構築していこう、というものです。
障がい者支援の文脈で語られることの多い概念ですが、多様性を大切にするという考え方と共に、企業の組織運営の領域でも謳われるようになってきています。
こういった動きが拡がっていくと、社会はどのように変わるのでしょうか。
今回は、「子育て」という観点から、インクルーシブ化の流れを考えてみたいと思います。
生きづらさの背景には、「全体に合わせるのが当たり前」という風潮がある。
わたしは、普段、オヤノミカタという会社で、親たちを支えることを目的として働いていますが、ふと周りを見渡した時に、生きづらさを抱えているのは親たちだけじゃないなーと、感じることがあります。
持病のある人、障がいのある人、介護中の人、外国人、LGBT、高齢者など、いろんな人たちがいろんな生きづらさを抱えて生きています。
そういった生きづらさの背景には、「全体に合わせるのが当たり前」という風潮があるのではないかと思います。
それがあるから、合わせられない人たちが生きづらさを抱える、ということです。
インクルーシブ化の流れは、そんな風潮をなくそうとする動きです。
誰も切り捨てない、ひとりひとりを尊重するということは、個人が無理して全体に合わせなくていいということ。
多様な人たちが多様な生き方をして、それでも成り立つ社会。
そういう社会構築の段階に入ってきているのではないかと思います。
インクルーシブな社会は、親にとっても生きやすい社会。
さて、「子育て」という観点では、インクルーシブ化の流れはどう捉えればよいのでしょうか。
「全体に合わせるのが当たり前」という風潮があるから生きづらさが生まれる、という現状は、子育て中の親たちにも当てはまります。
たとえば、多くの人がバリキャリで働いている職場で、こどものいる人たちの肩身が狭くなるのは、「全体に合わせるのが当たり前」という風潮があるからです。
また、公共の場で赤ちゃんが泣き出した時、親が必要以上に「申し訳ない」と思ってしまうのも、「全体に合わせるのが当たり前」という風潮が強すぎるからでしょう。
なので、インクルーシブ化が進めば、親たちの抱える生きづらさも解消されていくのではないかと思います。
個人が無理して全体に合わせなくていい社会、それは親にとっても生きやすい社会だと思います。
誰もが特別であり、また、誰もが特別扱いされずに済む世の中。
特定の人たちを優遇することが、それ以外の人たちを切り捨てる逆差別になるのではないか?
このことが、いつもわたしの中で引っかかっていました。
前述したように、生きづらさを抱えているのは親たちだけではありませんし、また、一口に「親」と言っても状況はさまざまなので、どこかで線引きしてしまうと、対立を招きかねません。
実際、こんな記事が話題になったこともあります。
インクルーシブ化の流れは、この課題にひとつの光を示してくれます。
つまり、「誰も切り捨てない、ひとりひとりを尊重する」という共通認識のもとであれば、ひとりひとりを取り巻く状況の差はそれほど重要ではなくなるということです。
それは、いわば、誰もが特別であり、また、誰もが特別扱いされずに済む世の中。
線引きも必要なく、逆差別も生まない社会。
そんな社会を目指していければと思うのです。
インクルーシブ化を加速させるために必要なこと。
では、この流れを加速させるためには、いったい何が必要なのでしょうか?
誰も切り捨てない、ひとりひとりを尊重する社会は、何らかのハンデを抱えている人のみならず、「自分らしく生きたい」と願うすべての人たちにとって、生きやすい社会だと思います。
言うなれば、枠を越えて、多くの人たちが連携しやすい概念。
なので、まず、インクルーシブという概念を多くの人で共有し、連携を促すところから始めていくのがいいのではないかと。
わたし自身、今後、さまざまな分野のリーダーたちと連携し、インクルーシブな社会づくりを推進していきたいと思います。
その第一弾として、5/10(木)13:00から、「ADHDでよかった」の著者である立入勝義さんとのWeb対談を予定しています。
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